置き薬の歴史

置き薬の始まり

置き薬の起源は、江戸時代(112代霊元天皇 1660年代)にさかのぼると推測されています。文献上では、岡山県和気郡益原村に住む泉州、堺万代村出身の万代家11代目の万代常閑が、「大庄屋廻し」という庄屋委託販売方式で、万代家の家伝妙薬の「延寿反魂丹」を中国、九州で配置販売したことが日本で最初とされています。
その後、常閑は天和3年(1673年)に、富山藩の日々野小兵衛の招きで、富山藩第二代目藩主・前田正甫公に「延寿反魂丹」の製法を伝授したといいます。

「富山の置き薬」は大名の腹痛事件がきっかけ

江戸時代は参勤交代で各藩の大名が江戸に召集されていましたが、元禄3年12月15日(1690年)、将軍綱吉に歳暮の挨拶と病気回復を報告する為、富山藩の殿様、前田正甫が江戸城に詰めていたおり、現在の福島県にあたる陸奥国三春の殿様が突然激しい腹痛に見舞われました。
 その時、自身の病を治すために常備していた丸薬、「反魂丹」を印籠から取り出し飲ませたところ、たちどころに良くなるという出来事がありました。その薬効に驚いた全国の大名は、「ぜひ、私の国でも反魂丹を売り広めてほしい」と正甫公に頼んだそうです。正甫公は、早速、越中反魂丹として、薬商・松井屋源右衛門にこれを調整させ、それを奇応丸など2~3種の薬とともに、八重崎屋源六を販売人と元締めとして諸国に行商させました。それが、本格的な置き薬のはじめです。

先用後利のシステムが置き薬を全国に広めた

配置販売の特徴として今も昔も変わらないことが、「先用後利」という言葉の象徴されるシステムです。
これは、各家庭へ薬を預けておき、次に廻ってきた時に使用した分だけ代金を集める。つまり、先に利用してもらい、後で利益をいただくとう意味です。このシステムは、お金のあるなしを気にせず、薬が必要な時に飲めるため、現金収入の少なかった江戸時代の農村や漁村でたいへん喜ばれました。「先用後利」は消費者本意の理想的なシステムといえるでしょう。

配置薬販売の近代化

 江戸時代に始まった「置き薬」の商売は、昭和の高度成長期を迎えるまで、その基本となる精神をしっかりと受け継いできました。全国各地へ薬箱と一緒に、健康や世の中で起こっている新しい出来事などの情報を届け、また明治から昭和にかけては、新種の稲の栽培法を伝えるなど地域社会に貢献することで、お客様からの信頼をより強固なものにしてきました。
 ただ、そのスタイルは古風なものであり、自宅に拠点を置きながらそれぞれの担当地域へ出張するという形式であり、そのほとんどが一人帳主(個人事業主)といった営業形態でした。
 その後、経済成長とともに交通網や自動車産業が発達したことや、地域により密着したサービスを進めるために、拠点を現地に移し、その形態も事業所にして、複数名での効率の良い経営が求められるようになりましたが、それは昭和40年代の高度成長期を迎えた頃に重なります。
 また事業所を法人組織にして規模の拡大を図る業者も台頭し、事務作業を効率化するために、今では懸場帳(顧客情報)と呼ばれて大切に受け継がれてきた帳面なども電子化されました。各営業担当者の携帯している端末と本社のホストコンピュータはオンラインで結ばれ、各種のデータ検索や分析なども瞬時に行えるようになってきています。

懸場帳(かけばちょう)

得意客に関する情報を記した帳面のことです。
配置員が廻商する地域を「懸場」を呼び、訪問先の住所、名前、使用薬の種類、使用量、回収薬から前回までの集金高、されには家族構成からその健康状態に至るまでを記して生まれたのが懸場帳です。
配置員は、毎年、年数回得意先を訪問します。その際に懸場帳に記した情報を基にして薬の配置数や種類、お土産の品などを決めるマーケティングを行っていました。このため懸場帳は今でも信用の暖簾(のれん)ともいえるものになっています。